山代神社やましろじんじゃ


 古志原六丁目の国道から住宅地の細い路地の参道を入ると、突き当りが山代神社です。参道入口に大きな「山代神社参道」の案内看板があります。

 「神名樋山(今日、茶臼山)の山腹に在りしを延宝八年古志原村の市右衛門、孫兵衛の両名、旧藩主に願い、許可を得て現在の社地へ遷転し産土神として奉斎す。」(神国島根)

 「もと神名樋山(今の茶臼山)の中腹に鎮座す(現在もこの地に岩室の古跡あり)。 往時古志原村に産土神社なきため、天災凶作つづき移住者定着することなく、民生安定せずとなし、鎮守社として藩許を得て、延宝八年(1680)現社地に奉遷す。」(境内由緒書)

 「江戸末の『出雲神社巡拝記』には『今俗に茶臼山といい、此の山の半腹に森今猶あり』とみえ、移転後も何らかの形で旧社地も信仰の対象となっていたと考えられる。旧社地の字は高森といい、現在は荒れた木立の中にかって社があったことを偲ばせる石群れがあるのみである。」(出雲国風土記註論)

 雲陽誌の古志原の項に、「高守神社 延宝年中勝部氏勧請す。」とあるのは、旧社地の字名が高森であることから、この山代神社のことと思われます。

 「境内神社(四社)
 『恵比須神社 祭神 八重事代主命 もと山代神社北方約五百米の地にて・・・その守護神として小社を建てて祭ったが安永年間、市を廃止し後産土神社境内に遷座す。
 和田積神社 祭神 豊玉彦命 社記に、旱魃のの節祈って雨を請い、・・・産土神の境内に社殿を建設して祭り始めたり。
 社日神社 祭神 天照大神・・・
 須我神社 祭神 須佐之男命、澳津彦命、澳津姫命 社記に、寛延年間世上悪病流行の際、此の神に祈ってその災禍をまぬがれしより、産土神社の境内の松の木を以て神璽とし、其の木の本に幣帛を捧げ祀れりと。
 地主荒神 氏子内各家でまつる地主荒神を産土神社境内に遷座奉斎するもの八社。
 賽神 もと鼻曲輪狼場山代境にあり・・・まつれるを、昭和三十五年山代神社境内に遷転す。
 幸神社、粂神社 祭神 猿田彦命、大来目命 出雲地方人参栽培の祖とも云うべき、小村新蔵は宝暦十年(1760)人参栽培をはじめたがこれについでその子小村茂重は・・・猿田彦神を信仰し、・・・その神像を自刻してサイワイ神社と称して、・・・古志原にあった・・・人参御会所奥六畳の間にまつられていた。・・・村内の寄附金をもって新宮を建立し、明治二十二年九月十二日粂神社と共に山代神社境内に合祀す。また、幸神社は文政十一年・・・松江人参方役所製造場に分詞す。』」(津田・古志原郷土誌)

 出雲風土記:山代社やましろのやしろ
 延喜式:山代神社
 主祭神:山代日子命やましろひこのみこと
 境内社:幸神社、和田積神社、恵比寿神社、須我神社、社日社
 境外社:伊勢宮

 所在地:松江市古志原六丁目73
 訪問日:2021年4月7日

国道から細い参道がある。社名碑直線の参道がある。

参道脇の歳徳神

手水舎慶応四年の狛犬

天保四年の傘と火袋のない石灯籠

文政二年の狛犬拝殿扁額

本殿本殿瑞垣内に社日碑がある。

石灯籠右の境内恵比寿神社

奥の林内にある荒神?拝殿の左に境内社が繋がっている。

幸神社本殿左の和田積神社幸神社の後ろにある須我神社

総荒神「須賀神社」社名碑荒神の石祠がある。

地神の石祠幸神社の横の小祠境内の全景




松江の神社