菅原梅ノ木天神すがはらうめのきてんじん


 宍道町上来待菅原の県道から少し北へ入った所にあります。普通の神社ではなく、道真生誕の地として、「遺蹟保存と遺徳発揚に奉仕している。」場のようです。

 「『別当職』であった『土井家』は宮支配を離れ『宝物』と『鼻繰梅』を抱え明治維新を迎えた。四十七世『清大夫』神祇伯王『白川家』の助言で明治中期に菅公遺蹟保存と神威発揚を願い『教会』を設立した。」(きまち書留帳)

 「この境内は菅原道真公ご誕生屋敷との伝承地である。九世紀の頃、当狩野家遠祖の藤原相元は伊勢外宮の職を辞し、同行の仙山、祐公と流浪の末、当地に伊勢宮(上流五百米)を祀り、開拓につとめ山田邑を開いた。その頃、菅原是善公が遠祖野見宿祢の故地(天満宮境内)を訪れ、当家を宿舎とし奉仕した相元の一女「春才」と契られた。帰京に当たり、後日の証に小さ刀を残し、「おのこ生まれなば都に伴ひ上れ」と下命された。承和十二年(845)六月廿五日、即ち丑年丑の日、丑の刻に男児が出生し「丑鹿児丸」と命名された。・・・後年当地でも生誕のゆかりで鬼門鎮守として菅原天満宮を奉斎し、当家は「別当家」として幕末まで奉仕した。中世よりは「土居屋敷」とか「梅の木さん」とか呼ばれたが、応永十年(足利義満時代)六月十七日、南北朝統一の記念として、後小松天皇より「冝任掃部助」の宣旨を当主氏重に賜った。また神祇伯王白川家から「梅殿」の称を下賜されたり、・・・出雲国造家などの庇護をうけてきた。明治維新による別当職廃止後は、四十七世清太夫により教会が設立され遺蹟保存につとめ、今は菅原梅の木天神大教会として遺徳発揚に奉仕している。
 此の御神梅は菅原道真公を牛鹿児丸と申上げた御幼少の時祖父相公が梅の実に穴をあけ糸を通して御玩具としてさし上げた。公六才のとき上京にあたり前途を占うため此所にお手植えになった。毎年実る実は牛の鼻孔に似た穴が貫通しているので鼻繰梅と称す(現存のものは十数代目と伝う)。この御神梅のきこえが高いので旧花山天皇御嫡流神祇伯王白川家より「梅殿」の称を当家狩野家に賜りて以来当所を菅原梅木天神と通称されるようになった。」(境内由来書)

 出雲風土記:
 延喜式:
 主祭神:菅原道真
 境内社:産湯神社、番神社、総荒神社、身代り天神社

 所在地:松江市宍道町上来待2182
 訪問日:2021年5月26日


県道から北へ入る。社名碑

牛の像が両側にある。

身代わり天神

菅公像が祀られている。菅原観音菅原梅ノ木天神大教会と掲げられた古い門

正面に鼻繰梅がある。境内の全景




松江の神社