野代神社 |
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乃木駅から約600mの森の中にあり、けやき通りから北へ入ります。長い石段を上がると、すぐそこに拝殿があり、正面からはカメラに収まりません。右へ周ると、石段の脇から分かれた亀田稲荷神社の参道があり、赤い鳥居があります。なぜか参道の石段の正面には社殿がなく、左へ寄った野代神社本殿横に接して社殿があります。境内を有効に使ったという感じです。 「出雲風土記に登録せられ・・・昔時は天照大神を中宮と云、大巳貴命を青木の宮と云、事代主命を西宮と云、三大社有り、元、妙見社と称し、明治二年社号を改めて西宮神社と称した、明治十八年・・・玉湯村大字林村・・・亀田稲荷神社を境内末社に移転す。明治四十一年九月十七日、宇賀神社と西宮神社及び仝神社境内末社八幡神社、仝川上神社、仝亀田神社を合併し社号を改めて野代神社と称す。明治四十二年十月十八日乃木村大字乃木字當貫鎮座の稲荷神社を本社に合併す。」(神国島根) 「野木神社 祠官是を中の宮という、大巳貴の社を青木の宮という、事代主の宮を西の宮という、三坐由来する所をしらず、永禄五年再興の棟札あり、往古は年中の祭禮三十五度、就中九月八日本社より蚊島へ御幸なしたてまつり品々神事ありしが、豊臣秀吉より社領没収せられ、その後毛利尼子両将合戦の時兵火のために社焼亡して、今は三神を西宮と一所に配合して年中四度の祭禮なり。」(雲陽誌) 「宇賀神社 この社の由緒書によれば、『勧請年暦不詳、元禄四辛未年の棟札有り。野城神社と号し、明治二庚午社号を改めて宇賀神社と称し、昔時は天照大神、合祭建御名方神、鵜草葺不合尊・大山祇神を中宮と云い、大巳貴命を元王子神社と云い維新以後青木の宮と云い、事代主命を西宮と云う三大社あり。然れども年暦不詳尼子・毛利の戦争兵火のために炎焼し、豊臣秀吉公の時領地を放され、当今の社地に合殿となし、旧社地は今本村の西方に方り、字王子坂・中の宮・神田の三耕地に当たると云う。』とあり、境内社には伊勢神社があった。由緒書からみると、この宇賀神社は昔あった中の宮と、維新後青木の宮と呼ばれた元王子神社・西宮神社が明治二年に合併して宇賀の社ができた。そして、西宮神社名の消失とともに、それまでの妙見社(現在の野代社)が同年西宮神社と称したことになる。」(乃木郷土誌) 出雲風土記:野代社
所在地:松江市浜乃木2丁目10-30 |
社名碑 | 大きな石灯籠 | 手水鉢 |
鳥居横の狛犬 | 長い石段を上がる。 | |
石段横に赤い鳥居が並ぶ。 | 随神門 | 随神門脇の狛犬 |
手水舎 | 拝殿 | |
扁額 | ||
本殿 | 亀田稲荷神社参道 | |
稲荷神社の狛狐 | 参道正面に社殿がない。 | |
左にある亀田稲成神社 | 神木 | 歳徳神 |
本殿後に多数の小祠が並ぶ。 | 名前のあるものもある。 | 左の境内 |
社日碑 | 稲荷神社の参道脇 |