熊野大社 |
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明治に入り、一村一社の施行により、明治41年に各村で合祀が行われましたが、旧熊野村では他の村以上に厳密に行われ、ほとんどの神社が熊野大社に合祀されたようです。 一の鳥居から入った参道が二の鳥居の前で曲がっているのは、大正8年に境内の拡張と社殿の移転が行われ、本殿が南側に移ったためだそうです。(八雲村誌) 「『出雲国風土記』意宇郡熊野山項の『熊野山 郡家の正南一十八里なり。(檜・檀あり。謂はゆる熊野大神の社、坐す。)』の記述から風土記編纂時の西暦七三三年には『熊野大神の社』は熊野山の頂上付近に鎮座しており、磐座的な姿であったと考えられ、斉明紀の『神の宮を修厳はしむ』の熊野大社の表記には合わないことがわかる。」(出雲国風土記註論) 「『雲陽誌』の意宇郡の熊野の項に熊野社があり、『【延喜式】【風土記】に熊野大社と書す、是すなはち速玉事解男伊弉冊三神をあわせまつりて上の社といふ、天照大神素盞嗚五男三女を合て十神をまつりて下の社とす、世人上の社を熊野三社といふ』とある。天狗山(熊野山)山頂は「元宮ヶ成」と呼ばれており磐座がある。ここが元宮で、その後麓の市場に移され、さらに現在の地に移された。明治39年、上の宮熊野三社は下の宮に移された。現在の熊野大社は下の宮である。上の宮には伊邪那美神社に、事解男神社、速玉神社、五所社、八所社の跡がある。この宮処を少し登ると久米社の跡がある。さらに登ると天狗山の遥拝所がある。下の宮は「伊勢宮」と呼ばれた。現在の熊野大社の北方400mほどの所に古墳があるとされ、それが稲田姫の御陵とも伝えられている。」(出雲神社探訪) 八雲村誌には、明治41年に上之宮に合祀し、明治42年に伊弉那美神社に合祀された神社として、事解男神社、速玉男神社、八所社、五所社、久米社(以上は上之宮)、前神社(稲葉)、能利刀神社(大石)、田中神社(大石)、楯井神社(大田)、布吾彌神社(大石)、矢谷山神社(矢谷)、藤代神社(森脇)、大田山神社(大田)、雲場社(大石)、素盞嗚社(宮内)、金田社(岩室)、天野八幡宮(須谷)、萱野山神社(茅野)、恵美須神社(市場)、養蚕社(境内)があげられています。
出雲風土記:熊野大社
所在地:松江市八雲町熊野2451 |
国道から参道が続く。 | 一の鳥居 | 社名碑 |
参道の狛犬 | 参道の松並木 | |
参道が左に曲がる。 | 二の鳥居 | 社名碑 |
三の鳥居 | 手水舎 | 境内の狛犬 |
随神門 | 随神門の脇に灯籠が並ぶ。 | |
拝殿 | 本殿 | 左脇の伊邪那美神社 |
左の境内社 | 荒神社 | |
御神水 | 稲荷神社 | |
鑚火殿 | 斎館 | |
社務所 | 右側にある稲田神社 | |
舞殿 | 環翠亭 | お守り所 |
境内全景 | 境内配置図 | 天狗山の元宮斎場跡 |