阿羅波比神社あらわいじんじゃ


 「出雲国風土記」にも記載されている社で、もとは洗合山にあったが、尼子毛利の戦のおり毛利元就が本陣設営のため現在地に移したと伝えられています。(城西公民館パンフレット)

 「照床明神 當社は風土記に載する阿羅波比社なり、少彦名命、大己貴命、天照大神、高皇霊尊、素盞嗚尊を合せ祭るゆえに五社明神と云なり、此の所を末次中原と云は大己貴命此國に到て、興言して曰く、葦原の中国本自荒亡とのたまう、葦原の中国の上下の二字を反覆して中原と云えり、・・・荒亡草木と宣う、草木の二字を去て荒亡とは云なり、後に荒隈、洗合とも書なり、社を照床と云は昔年荒亡より光を放て湖を照して浮来るものあり、即ち少彦名命なり、此故に照床の社とも云なり」(雲陽誌)

 「往古は洗合山に鎮座ありしを永禄五年毛利元就公、尼子氏を傾覆せんと洗合山に本城を築く時現在の地に奉遷せり、此辺荒隈あらわいと云うは大巳貴命少彦名命と力を合せ心を一にし天下を経営し、・・・中津国は本より荒亡あらびたりと宣いしによる。後に荒隈又は荒合と改めたり、即ち阿羅波比社と云い、・・・其の時少彦名命白欽びくくれんの皮を船となし海を照らし乘り来たり給うの故に照床社とも云う。」(神国島根)

 出雲風土記の「阿羅波比社」にあてることについて、「出雲神社探訪」では「黒田町の照床神社こそ阿羅波比神社とするようである。黒田町か外中原町かどちらが本来の社地かわからないが、照床神社のほうが位置的にもそれらしい気がする。」としています。

 「現状において考えるならば黒田の照床神社は旧社地と考えられる天倫寺山からは二キロほど離れており神社の遷座としては天倫寺山の裏手に当たる外中原の方が蓋然性が高い。」(出雲国風土記註論)



 出雲風土記:阿羅波比社あらわいのやしろ
 延喜式:
 主祭神:少彦名命すくなひこなのみこと大己貴命おおなむちのみこと天照大神あまてらすおおかみ高皇霊尊たかみむすびのみこと素盞鳴尊すさのおのみこと
 配祀神:誉田別天皇、帯中津日子天皇、息長足姫命、事代主命
 境内社:和多津海神社、金比羅神社、中原稲荷神社、番匠祖神 松尾神社、荒神社

 所在地:松江市外中原町54
 訪問日:2021年3月23日

鳥居のすぐ後に随神門がある。

手水舎拝殿扁額

本殿右側の境内社和多津海神社

後の境内社 金比羅神社左の境内社 中原稲荷神社

番匠祖神 松尾神社荒神社

社務所境内の全景




松江の神社